【読書感想文】『銃・病原菌・鉄』ジャレド・ダイアモンド

サワディーカ、最近、恩田陸さんの『蜜蜂と遠雷』を一気読みして号泣したピータックです。眠れない夜に読み始めたらコンクールの本戦が終わるまでそのまま読み耽ってしまいました。ニート万歳な生活ですね。

さて、自粛期間を使って『銃・病原菌・鉄』を読了したのですが、読書中に感じた(思い出した)問題意識を言語化しておこうと思います。

「ゼロ年代の50冊」として朝日新聞がセレクトした本の中で1位となった本らしいのですが、単行本として日本で初めて出版されたのは2000年なんですね。もう20年前。高校生の自分が読んでもしっくりこなかっただろうとは思いますが、東南アジアで4年間過ごした後の今の自分にはすごく刺激的な内容でした。やはり、自分が熟することで出会える本があるのですね。

さて、内容は「ヨーロッパ人が新大陸を征服した」という歴史が「新大陸の住民がヨーロッパを征服した」という歴史にならなかったのはなぜか、という理由を氷河期が終わった1万3000年前からの人類史をひもときながら説明しています。背景にあるのは、人種主義者(白人が人種として優れていたので現世界を統べるポジションにいるのは白人なのである)に対するアンチテーゼですね。

まとめとして、筆者はこう述べています。

ヨーロッパ人がアフリカ大陸を植民地化できたのは、白人の人種主義者が考えるように、ヨーロッパ人とアフリカ人に人種的な差があったからではない。それは地理的偶然と生態的偶然のたまものにすぎない――しいていえば、それは、ユーラシア大陸とアフリカ大陸の広さの違い、東西に長いか南北に長いかのちがい、そして栽培化や家畜化可能な野生祖先種の分布状況の違いによるものである。つまり、究極的には、ヨーロッパ人とアフリカ人は、異なる大陸で暮らしていたので、異なる歴史をたどったということである。

白人が優秀なわけではなく、あんたらが住んでた大陸が単に横に広がったから天下取れたんや、調子乗りなさんな、という事ですね。

この本を読みながら思い出していたのは、私が東南アジアに駐在し、インドネシアの工業団地を始めて訪れたときのことでした。インドネシアの工業団地の多くは日系の総合商社等が開発を手掛けており、海外進出の経験を持たない日系の中小企業でも安心して進出できるようになっていました。しかし、工業団地の担当者の方から造成当初の話などを聞いて最初に思い浮かんだのは「資本主義の暴力」というフレーズでした。「もともとそこに住んでいた住民を水をかけて追い出し、土地を造成・開発し、その土地を分割して、外国企業に売り渡す」というのは、なんて禍々しいビジネスモデルなんだ、と呆れながらも感心しました。そして、この本を読んでその話を思い出したのは、ピサロが行ったインカ帝国の征服と似ていたからです。

しかし、ピサロが銃・病原菌・鉄によってインカ帝国を支配したのに比べ、日本企業は納税・雇用の創出・産業の高度化といった資本主義の武器を用いて、投資先の政府の承諾のもと、かかる「征服」を行っています。確かに、外国からの投資によって当該国のGDPは高まり、経済成長を一足飛びに行うことが出来るでしょう。では、なぜ私がネガティブなフレーズでこれを表現しているかというと、その国独自の文化や風習を無視し、「資本主義ベクトル」という単一の物差しの上に乗ることを強制しているような気がしたからです。「進歩史観への反論」というのが近いと思います。本の中でジャレドはこう言っています。

産業化された社会が狩猟採集の社会よりも「優れている」とは考えていない。狩猟採取生活から鉄器に基づく国家に移行することが「進歩」だとは考えていない。・・・その移行によって、多くの人類がより幸福になったとも考えていない。

そう、他国からの投資を受け入れ、その国の産業を高度化させることが最善手だと考える政府関係者と安価な労働力を求める「先進国」の資本家の利害が一致し、国民の最大幸福を検討することなく、他国からの投資誘致が行われているように感じたところに、いわゆる資本主義の「暴力性」を感じたのでしょう。

ただ、この駐在期間の中で、東南アジアな国々にベターな選択肢があったのかと考えてみても、結局答えは見つかりませんでした。総合商社の友人とこのテーマで議論はしたのですが、「資本主義がスタンダードになっている世の中では、遅かれ早かれ、「資本主義のベクトル」に乗っかり、ヨーイドンで競争するしかないんだよ。」とも言われました。

正直、この話に「まとめ」的なものはまだないのですが、しっくりとする答えを出せない問題意識を持った、ということは少なくとも忘れないようにしようと思い、記録に残しておきたいと思います。違和感に対する敏感さを忘れないように。